Alma Brasileira Choros e tangos brasileiros / アルマ・ブラジレイラ 〜ブラジルの魂〜、Shizuka Shimoyama、下山静香
アルマ・ブラジレイラ 〜ブラジルの魂〜 / Alma Brasileira Choros e tangos brasileiros
- バトゥーキ
Batuque - ガウーショ
Gaúcho - 山の夜明け
O despertar da montanha - テネブローゾ
Tenebrozo - オデオン
Odeon - カリオカ
Carioca - カリニョーゾ
Carinhoso - ショーロス第5番〈ブラジルの魂〉
Choros No.5 “Alma brasileira” - ブレジェイロ
Brejeiro - フォン-フォン
Fon-fon - プランジェンチ
Plangente - マニョザメンチ
Manhosamente - アルマ・ブラジレイラ
Alma brasileira - ヴィオラの弦で
Na corda da viola - チコ・チコ・ノ・フバー
Tico-tico no fubá(piano duo)
下山静香プロフィール
桐朋学園大学卒業。同室内楽研究科修了。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員としてマドリードへ。故R.M.クチャルスキ、M.サバレタのもとで研鑽。ロドリーゴ生誕100年にはマドリード、ベルギーなどでの記念コンサートに出演。
その後バルセロナのマーシャル音楽院にて、C.ガリガ、故C・ブラーボ、故A.デ・ラローチャに
師事。マドリード、アランフェス、バルセロナほかに招かれリサイタルを行う。
帰国後はオール・スペインプログラムでのリサイタルを数多く開催、自治体やカルチャーセンター、大学(京都外国語大学、東京大学、東京藝術大学、慶應義塾大学、上智大学)に招かれて特別講義やレクチャーコンサートを行っている。また、スペイン・ラテンアメリカの室内楽、ピアノライブ「ラテンアメリカに魅せられて」、美術・文学ジャンルの造詣も生かした<音楽×美術><おんがく×ブンガク>などの斬新なコンサートシリーズを継続し、これまでにない切り口が話題となっている。
ソロのほか、室内楽・二重奏も重要な活動軸とし、これまでにウィーン・ヴィルトゥオーゾ、チェコフィルハーモニー六重奏団、S.フッソング(acco)、M.ホッセン(vl)、D.トカチェンコ(vl.)、R.シメオ(trp)など数々の海外アーティストと共演。
NHKスペシャルやドラマ、美術展などにおいてピアノ演奏を数多く担当。NHK-BSプレミアム「クラシック倶楽部」、NHK-BS「ぴあのピア」、NHK・Eテレ「ららら♪クラシック」、TBS-BS「本と出会う」、NHK・FM、フランス国営放送ラジオなどに出演している。
現在、各地で精力的な演奏活動を展開するかたわら、執筆(事典、専門書、連載、書評、エッセイほか)・翻訳・朗読とそのフィールドは進化し続けている。また、桐朋学園大学音楽学部および東京大学教養学部にて、スペイン、ラテンアメリカ音楽の講義を担当。2012年より、NPO法人JML音楽研究所にて「スペイン音楽演奏講座」を開講。2015年より「下山静香と行くスペイン 音楽と美術の旅」を実施し、バルセロナとマジョルカ、アラゴン、キューバに赴き演奏している(主催:郵船トラベル)。PTNA正会員/審査員/アドヴァイザー、日本スペインピアノ音楽学会理事。
★CD:《アランフェス》(Virgo/Art Union),《ファンダンゴ》(N&F/Art Union),《PERLA ~マイ・フェイヴァリッツ・モーツァルト~》(molto fine),《アルベニス名曲集》(molto fine),《モンポウ 前奏曲 & プーランク 夜想曲》(fontec),《ショパニアーナ》(fontec),《サウダージ・エン・ピアノ》(fontec),《ロマンサ・デ・アモール》(エス・ツウ/シルフィードレコーズ),《ゴィエスカス》(fontec),《ライブ in アルバラシン》(molto fine), 《アルマ・エランテ》(エス・ツウ/シルフィードレコーズ) Facebookページ/Ameba blog / Instagram
竹内永和プロフィール
東京、新宿生れ。
早稲田大学文学部日本文学科卒業。
第5回ギター音楽大賞受賞。
第7回ギターコンクール第1位。
アレンジャーとしても、スウェーデンのギタリスト、イョラン・セルシェルの2枚のビートルズアルバムにアレンジを提供(ドイツグラモフォンよりワールドリリース)。
2003年、ピアニストの下森佳津美(しももり かつみ)とデュオ・シルフィードを結成し、3枚のアルバム「幻想のパ・ド・ドゥ」「妖精のロンド」「愛の神話」を発表。 音楽関係各誌にて高い評価を受ける。
近年ではオーケストラとの共演も多く、佐渡裕指揮、シエナ・ウインド・オーケストラとのディズニーアルバム、竹本泰蔵指揮、アンサンブル金沢との映画音楽アルバムが、エイベックスからリリースされている。
アンサンブルではクアトロ・ビエントス、TRITONE他に参加。
また、新しいプロジェクトとして、俳優の榎木孝明との、朗読とギターのコラボレーション「天と地と」も話題を呼んでいる(原作者である海音寺潮五郎ゆかりの鹿児島を皮切りに各地で公演)。
更には、「野口英世記念ふくしま国際音楽祭」に第4回(2015年開催)より出演し、フルート、ピアノ、オカリナ、ハーモニカ、馬頭琴、朗読等と、数々の企画で共演。
洗足学園音楽大学、ワールドミュージックコース、編曲法講師。
アルマ・ブラジレイラ ~ ブラジルの心に寄せて
「ラテンアメリカピアノ名曲シリーズ」も第3弾となりました。メキシコ&キューバのロマンティックな作品集(2017)、アルゼンチンのパンパ系フォルクローレが香る作品集(2018)と続き、今回は南米一の広さを誇るブラジルにやってまいりました。
リオ・オリンピックが開かれた2016年にブラジルワルツ集をリリースさせていただいたのを機に、独特のサウダーヂが宿るブラジルの音楽にいっそう惹きつけられていった私は、なかでもショーロというジャンルに興味をそそられました。サンバやボサ・ノヴァにも影響を与えた、ブラジル・ポピュラー音楽の原点といえるショーロですが、ヴィラ=ロボス、ミニョーネ、ニャタリ・・・ブラジルを代表する大作曲家となった彼らを育てた背景として、例外なくショーロの実体験があるのです。また、来日するブラジル人ミュージシャンと交流させていただくなかで、自分の楽器を持ち寄りその場でセッションするホーダ・ヂ・ショーロ(直訳:ショーロの輪)も垣間見ることができ、彼らにとって音楽とはまず楽しむものであり、人々の日常生活に溶け込んでいる必要不可欠な存在なのだと確信しました。
ショーロの語源は、「ショラール」(chorar, 泣く)だと言われます(諸説あり)。19世紀を通じて醸成され、まず演奏スタイルとして、やがてジャンルとして都会で成立した粋な音楽ですが、ふとした哀愁の奥に、ヨーロッパとアフリカの音楽要素が溶けあっていった歴史が見え隠れするようです。今回のアルバムでは、曲によってそんな“ショーロ風味”を加減するのを楽しみながら収録してみました。
そして、タンゴ・ブラジレイロ —— ブラジルのタンゴは、スペインのタンゴとも、もちろんアルゼンチンのタンゴとも違うキャラクターを持っています。といっても、ブラジルで「タンゴ」と名のついた曲はバラエティに富んでおり、単純に定義することは難しいとされています。ナザレは、自身が書いたタンゴについて「ポルカとルンドゥーのリズムをピアノに移した」性格のものだと述べています。また、ゴンザーガは、ポルカやマズルカなどヨーロッパ生まれの舞踊音楽がアフロ=ブラジル音楽の影響を受けて誕生したマシーシ(マシシェ)・スタイルの曲を「タンゴ」として発表したりしています。マシーシ、タンゴ・ブラジレイロ、そしてショーロはいわば親戚のようなもので、実際、ナザレのタンゴのほとんどはショーロと呼べるスタイルが似合います。
ともあれ、ブラジルにおける「ヨーロッパとアフリカの融合」から生まれたこれらの果実を、魅力的なピアノ曲を通じてご紹介できることを幸せに思います。また今回も、竹内永和さんによる素敵なアレンジでショーロの精神を受け継ぐ名曲2曲をデュオで収録することができました。お手にとってくださった皆さまにとって、日々の生活のなかでふと聴きたくなる、そんなアルバムとなってくれることを願っております。
2021年 初夏
感謝を込めて 下山 静香
作曲家と作品について
*生年順に記載。
エンリキ・アルヴィス・ヂ・メスキータ Henrique Alves de Mesquita(1830-1906)
メスキータはリオ・デ・ジャネイロに生まれ、19世紀後半に活躍した音楽家である。リオ・デ・ジャネイロ高等音楽院を最優秀で卒業し、音楽院創立以来、奨学金でヨーロッパへの渡航費を得た初のケースとなった。1857年からパリに居住、コンセルヴァトワールで和声学を学び、新作オペレッタ《城の夜》などが上演されて成功を収める。しかし恋愛がらみの問題から逮捕される事態となり、1866年追われるようにブラジルに戻り、オーケストラのトランペット奏者となった。その後も音楽院でのソルフェージュや和声学の講師、指揮者、教会オルガニストなどの職に就きながら、オペレッタをはじめとする舞台作品で人気を博した。代表作に《アリ・ババ》《シャルルマーニュの王冠》などがある。
国際的にみればメスキータの知名度は高くはないが、「タンゴ・ブラジレイロ」という呼称を初めて使用した作曲家とされ(Olhos matadores, 1868作曲/1871出版)、ゴンザーガやナザレなど後続のブラジル人作曲家たちから敬意を表されている。《バトゥーキ》(1894)は代表曲の1つで、古き良き時代の空気が感じられる。「バトゥーキ」とは本来、アフリカ起源の打楽器系音楽を指すが、ブラジルタンゴのタイトルとしてよく使われ、この曲にも「タンゴ・カラクテリスチコ(特徴的なタンゴ)」の副題がついている。
シキーニャ(フランシスカ)・ゴンザーガ Chiquinha Gonzaga (1847-1935)
シキーニャは、ブラジルにおいて作曲家・ピアニストとして成功した初の女性であり、また初の女性指揮者でもあった。奴隷制の残る第二王政下、家父長制と性差別が根強く存在する時代に音楽界の第一線で活躍したシキーニャは、奴隷制廃止や共和制を唱えるなど熱心な活動家の顔ももち、また情熱的な私生活のイメージも手伝って「炎の女」とも呼ばれる。
名門家系の軍人と奴隷の娘という身分違いの両親が、苦難を乗り越え正式に結婚したのは、シキーニャが生まれた数年後のことだった。シキーニャが16歳のとき、父親の決めた相手と結婚するが、音楽を好まず理解のない夫との生活に耐えかねたシキーニャは18歳で子供たちを置いて出奔、別の男性と一緒になる。この行為は大スキャンダルとなり、家族からも絶縁される。
子をなした恋人とも別れたシキーニャは、リオで芸術活動の場を広げ、ジョアキン・カラードのショーロ楽団にピアニストとして参加。1877年、メスキータの家でのホーダ・ヂ・ショーロで生まれたポルカ《アトラエンテ》は、作曲家としてのデビュー作ながら大当たりをとる。女性が音楽家として自立することに対する偏見にも立ち向かいつつ、1911年にはみずからのショーロ楽団を結成、オペレッタやサルスエラも多数作曲するなど精力的に活動し、作品総数2000曲ともいわれる多作家となった。52歳の時には16歳の少年と恋に落ち、表向きは養子となった彼はシキーニャが87歳で生涯を終えるまで連れ添った。シキーニャの誕生日(10月17日)は、「ブラジル・ポピュラー音楽の日」に制定されている。
もっとも知られている《ガウーショ/コルタ・ジャカ》は、1895年に初演されたオペレッタ・ブルレスカ《ジジーニャ・マシーシ》の第3幕最後に置かれた曲で、人気を博しマシーシとして踊られ、またタンゴとして出版された。副題としてつけられた「コルタ・ジャカ」は「ジャックフルーツを切る」という意味で、ブラジルのダンスで使われるステップの名称。
エルネスト・ナザレ Ernesto Nazareth(1863-1934)
「エルネスト・ナザレこそ、ブラジルの魂を具現する作曲家である」とは、ヴィラ=ロボスの弁である。アカデミックな音楽教育を受けず、主に自身のピアノ即興をもとにした小品しか残されていないにもかかわらず、ナザレの影響はブラジルのほとんどの作曲家に及んでいると言っても過言ではない。まさに国民的作曲家と呼べる存在である。
リオ・デ・ジャネイロに生まれた彼は、ピアニストだった母親の影響で幼少からピアノを学び、特にショパンに傾倒してマズルカ、ワルツなどを書いた。サウダーヂをまとった優美なワルツは、「ブラジルのショパン」の名にふさわしい。また、ショーロやマシーシなどの感覚を持つタンゴ・ブラジレイロを多数作曲し、大衆的なピアニスト・作曲家として成功を収めた。
しかし晩年は、聴覚の異常、娘と妻に先立たれ悪化したうつ病、神経障害などに悩まされる辛い日々を送った。1933年に施設に収容されたナザレは、翌年のある日抜け出したまま行方不明となり、3日後に遺体となって発見されるという悲しい最期を迎えた。
当アルバムでは、数ある人気曲の中から〈ブレジェイロ〉〈オデオン〉〈フォン-フォン〉〈テネブローゾ〉〈カリオカ〉〈プランジェンチ〉が選ばれている。〈ブレジェイロ〉(1893)はナザレのタンゴ出版第1号であり、大変ポピュラーな作品。曲名の「ならず者」とは、リオの街を悠々と闊歩する、ちょっぴり不良ぶった粋な若者か。〈オデオン〉(1910)は、「シネ・オデオン」の待合ロビーでピアノを弾き始めた頃の作品。〈フォン-フォン〉(1912)は、自動車が普及し始めた時代の都会の様子を活写し、時おり「フォン・フォン!」とクラクションが鳴る。暗闇、苦悩といった意味の〈テネブローゾ〉(1913出版)は独特の雰囲気が漂う。ギタリストのビリャールに捧げられていることからも、背景にはギター的な創意があるように感じられる。ブラジル風タンゴとピアノの美しさが融合した〈カリオカ〉(1913出版)は、まさにナザレの真骨頂。カリオカとは「リオ・デ・ジャネイロ生まれ」を指す言葉で、曲名や楽団名などにも多く使われている。よりハバネラ色が強い〈プランジェンチ〉(1922)も同系統の曲調だが、「涙を流す」というタイトルにもあるように、さらに痛切な哀しみが宿る名曲。これらはすべて、ショローンたちの定番レパートリーとしても愛されている。
ゼキーニャ(ジョゼ・ゴメス)・ヂ・アブレウ Zequinha de Abreu(1880-1935)
薬屋を営む家に8人兄弟の長男として生まれる。幼くして音楽への適性をみせ、10歳の頃にはレキンタ、フルート、クラリネットを演奏でき、作曲も行なっていたという。18歳で結婚し、しばらくは市役所の職員など様々な仕事を務めるかたわら音楽を続けていた。父の死後、1920年にサンパウロに移ると、楽団を率いて活発な音楽活動を行なう。楽器店「カーザ・ベートーヴェン」などに出入りしているうちに有名出版社を営むヴィセンテ・ヴィターリと知り合い、毎月1曲ずつ自作を出版する契約を結ぶ。お互いの成功を導いたこの契約は、アブレウの生涯を通じて続くこととなった。
1917年に作曲され、1931年にレコード化された《チコ・チコ・ノ・フバー(粉をついばむ雀)》は、ショーロ最大のヒット作となり、様々なヴァージョンにアレンジされている。ピアノ用ではソロ、連弾、2台版が知られるが、今回はフランシスコ・ミニョーネ(1897-1986)による2台版を1人で演奏したものを収録。ヴィラ=ロボス以降、ブラジルでもっとも重要なクラシック作曲家と位置づけられるミニョーネは即興演奏も得意で、夫人(マリア・ジョゼフィーナ)が弾いていたナザレに即興で第2ピアノを合わせたことをきっかけに譜面に残すようになり、自作を含むブラジル人作曲家の曲に第2ピアノをつけて残したのだった。《チコ・チコ》もミニョーネらしい味つけで、楽しくも緻密に仕上がっている。
エドゥアルド・ソウト Eduardo Souto (1882-1942)
ピアニスト、作曲家、指揮者として活躍し、多くのジャンルに作品を残す。幼少時から音楽教育を受け、6歳ですでにショパン風のピアノ曲を書いたという。大学では工学を専攻するが経済的理由で断念、フランス銀行に勤める。銀行勤務時代から音楽活動を始めていたが、退職後の1919年に作曲したファド・ショーロ《山の夜明け》が大成功を収め、ブラジルのピアノ音楽における定番レパートリーのひとつとなった。同じ頃、音楽家たちのたまり場としても機能することになる楽器店「カーザ・カルロス・ゴメス」を創設。ナザレは、この店で6年にわたりピアニストとして働き、楽譜もここから出版されることとなった。
20年代はカルナヴァル用のマルシ―ニャが人気を博したほか、多くの楽団を創って演奏、録音を行なったが、1930年代になると音楽界をめぐる状況が変化、それに伴って銀行に戻り、会計係として働く生活を送った。
「サロン風タンゴ」と副題がつけられた《山の夜明け》は、様々なアレンジが施され、またドラマのテーマ曲に使用されるなど、ブラジルで現在も愛されている。
エイトル・ヴィラ=ロボス Heitor Villa=Lobos(1887-1959)
南米最大の作曲家として広く認知されているヴィラ=ロボス。ダイナミックな多様性をはらむブラジルの音楽を、唯一無二の語法と見事に同化させ、世界に「ブラジリアン・クラシック」のインパクトを与えた功績は大きい。
スペイン系の父は音楽愛好家で、常に音楽がある家庭環境で育った少年エイトルは、早くから本格的な音感教育を受け、チェロやクラリネットで室内楽の演奏に親しんでいた。一方、都会の街角には欠かせなかったセレスタ(ブラジル風セレナータ)にも惹かれ、16歳の頃にはショーロ仲間に加わりギターを演奏していた。
作品は10代から書き始め、1908年には早くもギターのための《ブラジル民謡組曲》が誕生、1910年代半ば頃から本格的に作品を発表するようになる。和声学には触れたものの伝統的な作曲法には従わなかったため、その斬新な響きや音楽は保守的な伝統主義者たちの攻撃にもさらされた。しかしその個性は輝きを増していき、様々な編成で膨大な作品を生み出すことになったのだった。
フォルクローレの参照の域を軽々と超え、真に民族的な創造力を従えたおおらかさ、そして、感覚的なひらめきがしばしば優位に立つ自由さが彼の音楽を特徴づけており、14曲からなる《ショーロス》はそんな代表作の一つとして評価されている。特に大編成になっていく第6番以降は本来のショーロのイメージとはかけ離れているが、インディオ由来、アフリカ系、そして外来を含むブラジル大衆音楽の多彩な要素をショーロの精神と統合し、壮大な音楽絵巻を創りあげているといえる。
1926年にパリで書かれた《ショーロス第5番》はシリーズ中唯一のピアノソロ曲で、「ブラジルの魂」の副題をもつ。ヴィラ=ロボスらしい熱いサウダーヂ感のあるテーマに挟まれた中間部では、母親のルーツでもあるインディオのエッセンスが使われている。
〈ヴィオラの弦で〉は、《ギア・プラチコ(実習の手引き)》のなかの1曲。ヴィラ=ロボスは10代後半から、ブラジル各地を旅してはわらべ歌などの民俗的な音楽を収集しており、それらを基盤とした《ギア・プラチコ》はリオの音楽学校で教材として使われた。アルバムⅠとされた137曲は、のちにピアノのためのアルバムとして10数巻に編纂され、《ヴィオラの弦で(ナ・コルダ・ダ・ヴィオラ)》は第1巻に5番として収められている。この「ヴィオラ」とは、ブラジル特有の少し小さめのギターに似た楽器を指す。もとの歌は、ヴィオラを弾くことで日々の苦労を忘れ、身も心も休まるという内容となっている。竹内永和による当アルバムへのアレンジではのびやかな雰囲気が引き出されており、この曲本来の性格が楽しめる。
ピシンギーニャ Pixinguinha(1897-1973〉
ピシンギーニャこと、アルフレド・ダ・ロシャ・ヴィアナ・フィーリョは、伝統的なショーロとアフロ=ブラジル音楽を融合し、ボサ・ノヴァをはじめとするブラジルのポップスに大きな影響を与えた。ブラジルでは彼を称えて、誕生日(4月23日)を「ショーロの日」に制定している。
音楽好きの父が経営する下宿屋では、住人の音楽家たちが頻繁にホーダ・ヂ・ショーロを開いていた。少年ピシンギーニャもそこで音楽に親しみ、カヴァキーニョやフルートの演奏を習得して才能を発揮、14歳でフルート奏者としてレコーディングに参加するまでになった。20歳前半にはカルナヴァルで発表したサンバが大ヒット、また、1922年には楽団を率いて半年に及ぶパリ公演を行なうなど成功を収める。フルートの名手ベネジート・ラセルダとのデュオ活動ではサックスを担当し、数々の名曲と録音を残した。40年代の後半から50年代にかけては、外来音楽の絶え間ない流入に対してブラジル音楽の価値を強化し再発見するプログラムにディレクター兼アレンジャーとして参加し、音楽界に貢献した。
1928年作曲の《カリニョーゾ(優しい調べ)》は、ブラジル第2の国歌とも称される名曲で、当アルバムのために竹内永和が書きおろしたアレンジでは、ギターの美質を生かししみじみとした世界が表現されている。
ハダメス・ジナタリ(ニャタリ) Radamés Gnattali ( 1906-1988)
イタリア系2世のため、イタリア語発音で「ニャタリ」とも呼ばれる。ともに音楽家だった両親のもと、幼少時から音楽に親しみピアノやヴァイオリンを演奏、9歳で子どもオーケストラの編曲や指揮をしたという。10代にはショーロなどの楽団でギターとカヴァキーニョを担当し、青年期にはピアニスト、ヴァイオリニスト、ヴィオリストとして室内楽活動を行なうなど、まさに万能である。特にピアノ演奏に優れていたが、コンサートピアニストだけには収まらず、マルチぶりを生かして音楽ジャンルの垣根を越えた活躍をすることとなった。
クラシック分野の作曲では、様々な楽器編成による《ブラジリアーナ》シリーズなどで評価を得ている。また、リオ・デ・ジャネイロを拠点にMPB(ムジカ・ポプラル・ブラジレイラ=ブラジルのポピュラー音楽)の作曲家やアレンジャーとして成功を収めながら、ラジオやテレビの番組プロデューサーも務め、ボサ・ノヴァのトム・ジョビンを紹介した功績もあり、20世紀のブラジルを代表する優れた音楽家の1人である。
《アルマ・ブラジレイラ(ブラジルの魂)》は夕暮れ時にそよぐ風のように始まり、表情が様々に変化していくが、その核には“ブラジルの魂”としてのショーロがある。20代の中頃に書かれたとみられ、《ショーロのリズムによる練習曲集》に第6番として収められている。《マニョザメンチ(器用に)》(1947)も「ショーロ」の副題をもち、ジナタリならではのジャジーなテイストと都会的なセンスにあふれている。
[記:下山静香]